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畦地梅太郎と奥秩父

畦地梅太郎は奥秩父、そして山について次のように書いている。


山に考える

 わたしは、山へはいるまでは、まったく、おっくうな気持ちなんだが、いざ山へはいってしまうと、やっぱりきてよかったなと、いつまでも思うのだが、このごろのように、山がひとつの流行になってしまって、街でも、会社の机の周囲でも、どこそこの山へ行ったと、話しあうことが、お互いの自慢のようになってみると、わたしはつとめて、山へいくことをさける気持ちになってしまう。
 乗り物でも、山小屋でも、山を歩いてさえも、知ったかぶって、そして変に気取った人達が多い。それでなければ、おれは山を歩いて、自分をより人間的なものにたかめたんだと、いわんばかりに、おさまりかえっている人にも逢う。いやなものだ。

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 わたしは、山は三〇〇〇メートルの雪線上もいいし低山もいいしどこでもいいのだが、たった一人で歩く原始林のなかなど、ことにすきである。
 もしろん、別の山にもいくらでもあることだろうが、秩父の原始林を一人であるくのはことにいいと思っている。

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 秩父の山も、森林ばかりの山とはかぎらない。森林のない稜線を歩く場合もあるが、しかし、広大な森林帯の地勢の山だから、すぐ近くに、森林があるし、全体大森林におおわれた和名倉山が、いつでも目の前にあって、わたしの気持ちをよろこばしてくれる。
 こんなえらそうなことを書いても、秩父の山をそんなに知っているというのではない。ほとんどのところを知らないといった方が、たしかなことかもしれん。
 秩父の森林といえば、なんといっても十文字峠あたりだそうである。峠の平地がものすごい森林だ。森林といっても自然の生存競争とでもいおうか、ほとんどの雑木は姿を消してしまっている。日のめを見せぬ地表の下草はシダの類が多く、まったっくすがすがしいものがある。

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 秩父の山は、ものすごい森林のなかを歩くのに、少々飲み水に不自由するのじゃなかろうか。十文字峠越にしても、見下す深い森林の溪谷から、とうとうと水の流れる音をききながら、水にかつえて歩くなどなさけなくなるとういうものだ。これだけが欠点かもしれん。
 こんなに登山が盛んになったこんな日でも、秩父の山を歩く人は、大体に地味な人が多いようだ。山の人気は北アルプスや、谷川岳が、いまもなお独占している形だ。
 登山というものには、岩もあれば、雪もある。氷もある。もちろん森林もある。どれをやっても登山なんだ。そこに技術の差はあっても、山男の山に向かう精神の差があってはなるまいと思う。
 山男というものは、論理一点張りで山に向かうことだけでなく、いますこし、山に住む、動物的な、原始の感情と、感覚で、山に向かうということも考えてみたいものだ。



畦地梅太郎 山の出べそより



読むたびに身が引き締まる思いがする。初心に戻って、このような謙虚な気持ちで山を歩きたい。




でも、難しいなあ。
by mobydick67 | 2011-05-09 19:39 | 奥秩父:山歩きと備忘録
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